衣食住の「食」が失われると人生の楽しみは大半奪われる

たかはしです。

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写真は尾道市向島「USHIO CHOCOLATOL」のチョコ。お土産でいただきました。カカオの味が濃い、いや濃いを通り越して、ボリボリとカカオの実をかじっているような、そんなチョコレートでした。苦いのは良いのだけど、もう少し舌触りなめらかなチョコの方がいいなー。

人間の欲求の大半は「食」なのでは

先日、コーヒーの飲み過ぎで胃を壊しまして。空腹時にコーヒーがぶ飲みしちゃダメですね。訪問するお客さんごとにコーヒー出してくれるもので、ついつい飲んでたら飲みすぎてしまいました。胃が痛いなーと思ってたら、その夜は熱が出て、背中をはじめ体の節々も痛くなってしまいました。背中丸めて二日ほど寝込んだら回復しましたが、そんな中でぼーっと考えてたのがこれ。

食欲がない訳ではないのだけど、食べると胃が痛くなるのがわかっている。スーパーに行って食べ物を眺めるだけで、胃がキリキリと痛む。そんな経験をしてみると、「食」を奪われてしまうと自分のモチベーションの大半が大きく失われてしまうことを発見しました。

今日は頑張ったし、美味しいもん食べるか!はNG。

元気出すために焼き肉でも食べるか!はNG。

ご褒美に甘いものでも〜もNG。

疲れたしビールでも一杯飲むか!プハ〜!もNG。

場所を変えて仕事に取り組むためにスタバで作業するか!もNG。胃に優しいものを頼めばいいんですけどね。

 

ふと考えてみたんです。

自分が稼いでくるお金のうち、可処分所得を衣食住のどこに充てているか。私の場合は大半が「食」でした。それくらい、「食」への思いが強いです。うまいもん食いたいからお金稼いでるんです。子供達にもうまいもん食わせてやりたいから、頑張って働いているんです。

糖尿病だった祖母の話

「食」が失われると、人生の楽しみの大半が失われてしまう。頭では理解していましたが、いざ体感してみるとなかなかキツいですね。幸い、私の場合は胃薬を飲んで数日で回復しましたが、ひたすら食事制限が必要な方もいらっしゃいます。

他界した祖母は、甘いものがとても好きでした。あるとき糖尿病になって、甘いものはあまり食べてはいけなくなったようです。

祖母はこんなことを言っていました。

「前は、おまんじゅうとかパンとかいっぱい食べてたのになあ、もう食べられへんねん」

病気だから仕方ないよねーと、当時の私には超他人事として対応していましたが、いざ食の楽しみを奪われてしまうと辛いものです。人生における楽しみの大半が「食」なのだとしたら、残りの人生、何を楽しみに生きていけば良いのでしょう。人それぞれ、人生の楽しみを探していくのです。祖母は「テレビみても何も面白くないわー」と言いながら、胃がんで亡くなってしまいました。

初孫だった私にはとにかくやさしい祖母でした。わがまま放題だった私に、いろいろ含蓄ある言葉をかけてくれました。親元を離れて数年間ほど同居していたのですが、当時はわずらわしく感じていた祖母(ごめんね)の対応も、今になって思えばひとつひとつが大切な思い出であり、自分の成長につながる出来事でもありました。

食が満たされたら、次は?

視点を変えて、食欲が満たされた先の話を考えてみましょう。

子供の頃は、お金があればステーキが食べられる、親がお金を払ってくれないからステーキが食べられない。そんな風に思っていて、いつかは自分のお金で腹一杯ステーキを食べるんだ。そんなハングリー精神もありました。

今は、生活するに困らない程度の収入はありますが、毎日ステーキは食べません。それどころか、お金をつぎ込んで腹一杯ステーキを食べるような経験もしていないかもしれません。子供の頃に感じていたハングリー精神とは一体何だったのでしょうか。

もしかすると歳をとってステーキに胸焼けを感じるようになったのかもしれません(冗談です)

お金も食欲も同じなのですが、足りないと思っている時には「それが根本原因」のように思えてしまうものです。食べたいけど食べられない、なぜか。お金がないからだ。お金があれば食べられるのに。それはそうなのですが、もともとなぜ食べたかったのか、なのですよポイントは。

きっと、ステーキが食べたかったのではなく、食べたい時にステーキを食べられる「ような生活」、つまり「親に甘えられる生活」がしたかったのです。ステーキは経済的独立の象徴ではなく、親からの愛情を感じるための指標だったのかもしれません。

大人になってから腹一杯肉を食べた気がしますが、それで得たものは精神的満足感ではなく、胃もたれでした。

本当に人生の楽しみは奪われているのか?

さて、掲題の件に戻ってみましょう。食が失われると、人生の楽しみは大半奪われる。本当でしょうか?

食事は生きるために大切な作業ですが、食事制限が必要になったとき、人生の楽しみは本当に奪われてしまうのでしょうか。そんな気がしているだけではないですか?

好きなものを好きなだけ食べられる自由。その行動を経て、本当に自分が得たかったことは何ですか?それを考えてみると、食以外の方法で人生の楽しみを見出していく手段が見つかるのではないか。私はそう考えています。

とはいえ、胃痛も治って普通にごはんを食べられるようになりましたので。疑問は疑問として頭に置きつつ、今は美味しいごはんをモチベーションにしながら色々なことを頑張っていこうと思います。

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